沖縄地方が梅雨入り宣言をしたその朝、
湧き水fun倶楽部4月定例会が行われました。
湧き水の聞き取り調査をする際に、地域の歴史を知っているのと
知らないのでは、理解に差ができてしまうので、浦添の歴史の元
となる「浦添城」と王の墓「ようどれ」を中心に今回は会員の
浪岡さんと鈴木さんが案内して下さいました。

案内板の前に立って説明してくれたのは鈴木さん。

浪岡さんが準備してくれた資料と案内板でしっかりと位置の確認
をして出発です。

まずは「浦添ようどれ」に向かいます。

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って

中に入ると

琉球国王初期の王陵で13世紀に築かれたといわれる
「ようどれ」が目の前に。「ようどれ」とは沖縄の言葉で「夕凪」。
安心して暮らせる場所という意味があるそうです。
手前(西室)は「英祖王」奥(東室)には「尚寧王」が眠っているそうです。

伊波普猷の墓、復元中の城壁、愛知県の慰霊碑跡、浦添家の館跡、
浦和の塔、ディークガマを周り展望台でひと休み。

浦添城跡内には、沖縄の歴史の中でも重要な場所がいくつもあること
が知られていますが、戦争遺産が意外に多いことに驚かされます。
ここで沖縄戦の様子を聴いていると、目の前に広がる風景の見え方が
違ってきます。
城跡内の原っぱの斜面にはかわいい花がいっぱい咲いているのを
ごやさんが見つけ「お花畑みたい~」叫んでいました。
「この花なんだろうね~」としばらく写真を撮ったりして癒されました。
参加した石井さんが後日、花の名前を調べて教えてくれました。

小さい花が「ユウゲショウ」

大きい方は「ヒルザキツキミソウ」
ようどれ(ユウナギ)に咲くユウゲショウいいですね。
一面に咲かせて「ようどれ」の花にしてもいいかも。
石井さんはこのような言葉を添えて下さいました。
ステキですね。
この後訪れたのが「前田高地平和之碑」

ここは日本軍の戦没兵士のための慰霊碑だそうです。
私はこの慰霊碑の存在を初めて知りました。
浪岡さんの話によると、沖縄戦で戦没した兵士の数は
北海道出身者が一番多かったそうです。
浪岡さんのお父様は北海道の出身で兵士として満州で
負傷し九死に一生を得て関西の陸軍病院で治療を受け
一命を取り留めたそうですが、もし、負傷せずに戦って
いたとしたら、その後は沖縄で戦いここに名前が刻まれ
る運命だったはず・・・そうなっていたら、私はここに
おらんかったし、ここでみなさんにこんな話をすることも
なかったかもしれませんね・・・という浪岡さんの言葉
が心にずしんと響きました。
戦争を国の歴史ではなく個の歴史の積み重ねで考えてみる
と、違った角度から見えてくることがたくさんあるような
気がします。
ひとりひとりが語れる部分でいいので戦争の語り部になる
ということもとても大切なことだと思いました。
人の思いというものは、やはり伝わるものがあります。

城跡の東の端まで歩いていくと、そびえ立つ
「為朝岩(はなれじー、ニードルロック)」を目の前に見ることが
できました。
ここも戦争遺産のひとつです。
参加した渡辺さんが
「この岩、少し前まではもっと高かったような気がするのですが・・」
と質問すると、浪岡さんは
「そうなんですよ。よく気がつきましたね。ここも保存するのであれば
対策が必要だと思うのですが、そのあたりを検討することも大事かも
しれませんね」
というお話しでした。
その後、今年3月に発行した改訂版「浦添の湧き水マップ」に
加えられた湧き水(正確には跡)の「鏡川(カガンウカー)」へ。

水面が鏡のように美しかったというのが名前の由来で、
「琉球国由来記」には、お正月に国王の若水として恵方の水を汲む
ための泉のひとつとして大切に守られていたことが記されている
神聖な場所です。
残念ながら採石で水は枯れてしまったそうです。

その他、石畳や浦添城の碑をまわり、もう一箇所、湧き水の跡がある
というので案内してもらいました。

「カラウカー」
こちらも水が枯れてしまっている・・・というはずでしたが、
のぞいてみると驚いたことになんと水がある!!

これには案内をしてくれた浪岡さんもびっくりしていました。
その後、戦争の時に近くの人たちが隠れたガマの跡を見て、
最後は魚小堀(イユグムイ)跡で今日の散策会のプログラム
は終了しました。
資料を準備し、調整や下見と入念な計画で今日の定例会の
講師として案内してくれた浪岡さん、鈴木さん本当にありがとう
ございました。
日本の歴史は学校で勉強した記憶があるのに、沖縄の歴史は
あまり詳しく知らないウチナーンチュも多いのですが、とても
わかりやすく楽しく浦添の歴史を学ぶことができ、有意義な時間
を過ごすことができました。
まだ、少し時間があったので、近くの伊祖城跡まで足を伸ばし

その道向こうの小さな階段を下りて

立津(タチチ)ガーに行ってみることに。

以前よりも水がきれいになっていて、手で触れたり足を浸したり。

流れに沿って歩いていくと、奥には白い馬が飼われていました。

かつて首里王朝時代に国王の若水献上行事の際、沢岻樋川から
水を汲んでお城に届けるときには、「白い馬」にのって水を
届けたという話を思い出しました。その馬の子孫なのでしょうか???
お昼を挟み、午後は今年度より活動拠点としてミーティング
の際に会議室をお借りすることになった「環境科学センター」へ。

金城さんと桂さんがいろいろと準備をして下さり、和気藹々と今後の
活動内容についての話合いを行うことができました。
本当にありがとうございます。
参加した皆さん、お疲れ様でした。
湧き水fun倶楽部4月定例会が行われました。
湧き水の聞き取り調査をする際に、地域の歴史を知っているのと
知らないのでは、理解に差ができてしまうので、浦添の歴史の元
となる「浦添城」と王の墓「ようどれ」を中心に今回は会員の
浪岡さんと鈴木さんが案内して下さいました。

案内板の前に立って説明してくれたのは鈴木さん。

浪岡さんが準備してくれた資料と案内板でしっかりと位置の確認
をして出発です。

まずは「浦添ようどれ」に向かいます。

暗しん御門(くらしんうじょう)を通って


中に入ると

琉球国王初期の王陵で13世紀に築かれたといわれる
「ようどれ」が目の前に。「ようどれ」とは沖縄の言葉で「夕凪」。
安心して暮らせる場所という意味があるそうです。
手前(西室)は「英祖王」奥(東室)には「尚寧王」が眠っているそうです。

伊波普猷の墓、復元中の城壁、愛知県の慰霊碑跡、浦添家の館跡、
浦和の塔、ディークガマを周り展望台でひと休み。

浦添城跡内には、沖縄の歴史の中でも重要な場所がいくつもあること
が知られていますが、戦争遺産が意外に多いことに驚かされます。
ここで沖縄戦の様子を聴いていると、目の前に広がる風景の見え方が
違ってきます。
城跡内の原っぱの斜面にはかわいい花がいっぱい咲いているのを
ごやさんが見つけ「お花畑みたい~」叫んでいました。
「この花なんだろうね~」としばらく写真を撮ったりして癒されました。
参加した石井さんが後日、花の名前を調べて教えてくれました。
小さい花が「ユウゲショウ」
大きい方は「ヒルザキツキミソウ」
ようどれ(ユウナギ)に咲くユウゲショウいいですね。
一面に咲かせて「ようどれ」の花にしてもいいかも。
石井さんはこのような言葉を添えて下さいました。
ステキですね。
この後訪れたのが「前田高地平和之碑」

ここは日本軍の戦没兵士のための慰霊碑だそうです。
私はこの慰霊碑の存在を初めて知りました。
浪岡さんの話によると、沖縄戦で戦没した兵士の数は
北海道出身者が一番多かったそうです。
浪岡さんのお父様は北海道の出身で兵士として満州で
負傷し九死に一生を得て関西の陸軍病院で治療を受け
一命を取り留めたそうですが、もし、負傷せずに戦って
いたとしたら、その後は沖縄で戦いここに名前が刻まれ
る運命だったはず・・・そうなっていたら、私はここに
おらんかったし、ここでみなさんにこんな話をすることも
なかったかもしれませんね・・・という浪岡さんの言葉
が心にずしんと響きました。
戦争を国の歴史ではなく個の歴史の積み重ねで考えてみる
と、違った角度から見えてくることがたくさんあるような
気がします。
ひとりひとりが語れる部分でいいので戦争の語り部になる
ということもとても大切なことだと思いました。
人の思いというものは、やはり伝わるものがあります。

城跡の東の端まで歩いていくと、そびえ立つ
「為朝岩(はなれじー、ニードルロック)」を目の前に見ることが
できました。
ここも戦争遺産のひとつです。
参加した渡辺さんが
「この岩、少し前まではもっと高かったような気がするのですが・・」
と質問すると、浪岡さんは
「そうなんですよ。よく気がつきましたね。ここも保存するのであれば
対策が必要だと思うのですが、そのあたりを検討することも大事かも
しれませんね」
というお話しでした。
その後、今年3月に発行した改訂版「浦添の湧き水マップ」に
加えられた湧き水(正確には跡)の「鏡川(カガンウカー)」へ。

水面が鏡のように美しかったというのが名前の由来で、
「琉球国由来記」には、お正月に国王の若水として恵方の水を汲む
ための泉のひとつとして大切に守られていたことが記されている
神聖な場所です。
残念ながら採石で水は枯れてしまったそうです。

その他、石畳や浦添城の碑をまわり、もう一箇所、湧き水の跡がある
というので案内してもらいました。

「カラウカー」
こちらも水が枯れてしまっている・・・というはずでしたが、
のぞいてみると驚いたことになんと水がある!!

これには案内をしてくれた浪岡さんもびっくりしていました。
その後、戦争の時に近くの人たちが隠れたガマの跡を見て、
最後は魚小堀(イユグムイ)跡で今日の散策会のプログラム
は終了しました。
資料を準備し、調整や下見と入念な計画で今日の定例会の
講師として案内してくれた浪岡さん、鈴木さん本当にありがとう
ございました。
日本の歴史は学校で勉強した記憶があるのに、沖縄の歴史は
あまり詳しく知らないウチナーンチュも多いのですが、とても
わかりやすく楽しく浦添の歴史を学ぶことができ、有意義な時間
を過ごすことができました。
まだ、少し時間があったので、近くの伊祖城跡まで足を伸ばし

その道向こうの小さな階段を下りて

立津(タチチ)ガーに行ってみることに。

以前よりも水がきれいになっていて、手で触れたり足を浸したり。

流れに沿って歩いていくと、奥には白い馬が飼われていました。

かつて首里王朝時代に国王の若水献上行事の際、沢岻樋川から
水を汲んでお城に届けるときには、「白い馬」にのって水を
届けたという話を思い出しました。その馬の子孫なのでしょうか???
お昼を挟み、午後は今年度より活動拠点としてミーティング
の際に会議室をお借りすることになった「環境科学センター」へ。

金城さんと桂さんがいろいろと準備をして下さり、和気藹々と今後の
活動内容についての話合いを行うことができました。
本当にありがとうございます。
参加した皆さん、お疲れ様でした。