2月15日は、沖縄県環境科学センターにて「浦添市市民の学び応援講座(第5回目)」が開催されました。
この日は、沖縄史教育や平和教育などをご専門とされる沖縄大学客員教授の新城俊昭先生を講師にお招きしました。
講演に先立ち、先月のお茶会でお菓子を用意できなかったからということで上原さんから改めてお菓子の提供がありました。

お菓子をありがたくいただいた後、新城先生の講演の始まりです。

新城先生から「琉球史の謎解き~正史に隠された真実」と題した講演の冒頭で、

「汝の立つところを深く掘れ そこには泉あり」というニーチェの言葉が紹介されました。沖縄県における高校入試の社会科で、最も低い正答率が沖縄の文化に関する問題だったのだそうで、琉球・沖縄史を学ぶ意義や実態が子ども達に教えられていないことに対しての強い危機感から、足元を学ぶことの大事さを熱く語っておられました。
講演の中心は、琉球王国時代の第一尚氏~第二尚氏時代に遡ります。

琉球王国の時代、中国から来た冊封使には「その地域の水を称える」という儀式があったそうで、首里城内にある「龍樋」は「中山第一(琉球で一番おいしいお水という意味)」と称えられ、朝夕の2回、那覇にある「天使館」(冊封使のための宿舎・施設)に届けられたのだそうです。那覇市樋川にある「汪樋川」は龍樋の次においしいお水だと称えられたそうです。

また、識名園にある育徳泉には「甘醴延齢」と称えられたということです。
こうした儀式は、水は命とかかわるとても大切なものであることから、そうしたことから称えたのだろう、ということです。

講演の中で新城先生は先の首里城の火災を例に挙げ、「今回の火災は5回目であり、1453年の「尚布里・志魯の乱」における焼失が1回目である」という「定説」について、様々な疑問点があることが紹介されました。
「尚布里・志魯」の乱とは、第一尚氏時代の第5代国王である尚金福が亡くなった際、金福の弟である布里と、金福の子である志魯による権力争いのことで、この乱により首里城は焼失し、両者とも命を落としたとされるものです。結果、第6代国王には布里の弟である尚泰久が即位することになります。

私達が昨年4月に開催した「グスクとカーを巡る~南城市富里編」の街まーいでは、尚布里の墓と言われる場所を訪れ、そこには「布里・志魯の両者とも亡くなったとされているが、布里は生き延びて各地を転々としたのちに1463年にで亡くなった」と記されていました。

「布里・志魯の乱」から11年後に亡くなったことになります。生き延びた布里が第6代の国王にならなかったのは、この乱で首里城が焼失してしまい、大事な印鑑が溶けてなくなってしまったために、その責任から逃れるために各地を転々としたとのことです。
この「布里・志魯の乱」による首里城の焼失については、尚泰久からの奉文や、明朝の正史である「明史」、冊封の正史である「中山沿革史」、そして、琉球最初の正史である「中山世鑑」(1650年:羽地朝秀)と、のちの「中山世譜」(1701年:蔡鐸)には「府庫を焚焼し(重要な倉庫が炎上)」としか記されていないものが、蔡温によって改訂された「中山世譜」(1725年:蔡温)には「満城火起こり府庫が焚焼(首里城が全焼し重要な倉庫も炎上)」と記されているのだそうで、「球陽」(1745年:鄭秉哲)もこれを踏襲しているとのことです。また、「球陽」や「琉球国由来記」にも首里城が再建されたとの記述がないことや、これらの記録に記載されている人物の年齢や系図にも異なる部分が多くあり、これらについても疑問が示されました。
こうした正史と呼ばれる記述の中には多くの疑問点や矛盾点があり、これらを突き詰めていくと「布里・志魯の乱による首里城の焼失」そのものがなかったのではないか、という見方が最近の学者の意見になりつつあるそうです。
異なる記述があることについて、どちらが真実なのか、ということではなく、こうした違いがなぜ生じたのか、その歴史的背景と考えながら探っていくと楽しいかも知れません。今となっては、決定的な証拠でも出てこない限り、どれが真実なのかなど確かめようがないのですから。

新城先生は別の一面をお持ちで、「涙そうそう」のうちなーぐちバージョンを作詞された方でもあるとのことで、講演の前後に流させていただきました。この曲は、ビギンの島唄「オモトタケオ」に収録されていますので、ご興味のある方はぜひ。
この日は、沖縄史教育や平和教育などをご専門とされる沖縄大学客員教授の新城俊昭先生を講師にお招きしました。
講演に先立ち、先月のお茶会でお菓子を用意できなかったからということで上原さんから改めてお菓子の提供がありました。

お菓子をありがたくいただいた後、新城先生の講演の始まりです。

新城先生から「琉球史の謎解き~正史に隠された真実」と題した講演の冒頭で、

「汝の立つところを深く掘れ そこには泉あり」というニーチェの言葉が紹介されました。沖縄県における高校入試の社会科で、最も低い正答率が沖縄の文化に関する問題だったのだそうで、琉球・沖縄史を学ぶ意義や実態が子ども達に教えられていないことに対しての強い危機感から、足元を学ぶことの大事さを熱く語っておられました。
講演の中心は、琉球王国時代の第一尚氏~第二尚氏時代に遡ります。

琉球王国の時代、中国から来た冊封使には「その地域の水を称える」という儀式があったそうで、首里城内にある「龍樋」は「中山第一(琉球で一番おいしいお水という意味)」と称えられ、朝夕の2回、那覇にある「天使館」(冊封使のための宿舎・施設)に届けられたのだそうです。那覇市樋川にある「汪樋川」は龍樋の次においしいお水だと称えられたそうです。

また、識名園にある育徳泉には「甘醴延齢」と称えられたということです。
こうした儀式は、水は命とかかわるとても大切なものであることから、そうしたことから称えたのだろう、ということです。
講演の中で新城先生は先の首里城の火災を例に挙げ、「今回の火災は5回目であり、1453年の「尚布里・志魯の乱」における焼失が1回目である」という「定説」について、様々な疑問点があることが紹介されました。
「尚布里・志魯」の乱とは、第一尚氏時代の第5代国王である尚金福が亡くなった際、金福の弟である布里と、金福の子である志魯による権力争いのことで、この乱により首里城は焼失し、両者とも命を落としたとされるものです。結果、第6代国王には布里の弟である尚泰久が即位することになります。

私達が昨年4月に開催した「グスクとカーを巡る~南城市富里編」の街まーいでは、尚布里の墓と言われる場所を訪れ、そこには「布里・志魯の両者とも亡くなったとされているが、布里は生き延びて各地を転々としたのちに1463年にで亡くなった」と記されていました。

「布里・志魯の乱」から11年後に亡くなったことになります。生き延びた布里が第6代の国王にならなかったのは、この乱で首里城が焼失してしまい、大事な印鑑が溶けてなくなってしまったために、その責任から逃れるために各地を転々としたとのことです。
この「布里・志魯の乱」による首里城の焼失については、尚泰久からの奉文や、明朝の正史である「明史」、冊封の正史である「中山沿革史」、そして、琉球最初の正史である「中山世鑑」(1650年:羽地朝秀)と、のちの「中山世譜」(1701年:蔡鐸)には「府庫を焚焼し(重要な倉庫が炎上)」としか記されていないものが、蔡温によって改訂された「中山世譜」(1725年:蔡温)には「満城火起こり府庫が焚焼(首里城が全焼し重要な倉庫も炎上)」と記されているのだそうで、「球陽」(1745年:鄭秉哲)もこれを踏襲しているとのことです。また、「球陽」や「琉球国由来記」にも首里城が再建されたとの記述がないことや、これらの記録に記載されている人物の年齢や系図にも異なる部分が多くあり、これらについても疑問が示されました。
こうした正史と呼ばれる記述の中には多くの疑問点や矛盾点があり、これらを突き詰めていくと「布里・志魯の乱による首里城の焼失」そのものがなかったのではないか、という見方が最近の学者の意見になりつつあるそうです。
異なる記述があることについて、どちらが真実なのか、ということではなく、こうした違いがなぜ生じたのか、その歴史的背景と考えながら探っていくと楽しいかも知れません。今となっては、決定的な証拠でも出てこない限り、どれが真実なのかなど確かめようがないのですから。

新城先生は別の一面をお持ちで、「涙そうそう」のうちなーぐちバージョンを作詞された方でもあるとのことで、講演の前後に流させていただきました。この曲は、ビギンの島唄「オモトタケオ」に収録されていますので、ご興味のある方はぜひ。