4月20日は、4月の定例会が開催されました。
今月の定例会は「グスクとカーをめぐる」勉強会で、2017年恩納村山田グスクでの勉強会に引き続き、渡辺が企画を担当しました。この日の参加は、金城顧問をはじめ、琉球大学の高橋さんを親子を含め10名です。
今回は、南城市玉城富里編です。

今回、このルートを案内してくださるのは「アマミキヨ浪漫の会」のガイド、嶺井さんです(写真左から二人目の水色のシャツの方)。天気が心配なため早速スタートです。

集合場所の陸上競技場から少し歩くと、左側に小さな森が見えますが、この辺りはやんばると同じ地質で、植生もほぼ同じなのだそうです。

まず最初に訪れたのは「百十踏揚(ももとふみあがり)の墓」。

百十踏揚は、琉球王国第6代の国王、尚泰久の長女で、勝連按司であった阿麻和利のもとに嫁いだ方。祖父は護佐丸です。

そもそもこの結婚は、勝連按司・阿麻和利の動向を警戒していた首里王府による政略結婚だったのだそうです。
護佐丸・阿麻和利の乱の後、阿麻和利は王府に征伐され、百十踏揚は、越来賢雄(鬼大城)に嫁ぐことになりますが、この越来賢雄もまた征伐されてしまいます。
絶世の美女であったそうですが、自らの祖父が夫の謀略によって命を落とし、その夫も次の夫も征伐されてしまうという悲劇の中に生きた方であったことが嶺井さんの紙芝居からもよくわかります。
百十踏揚の墓を探しに来たものの見つけられなかったメンバーの方が数名。その方たちの感激もひとしおだったようです。

次に訪れたのは、「仲栄真(なけーま)グスク」。

このグスクは、尚泰久の四男である八幡加那志らが作ったとされますが、今は石積みの一部がわずかに残るのみです。

次は、その仲栄真グスクの目の前にある「主留前殿内(するめーどぅんち)」。ここは、尚泰久の長男である安次富加那巴志(あしとみかなはし。「加那巴志」は「金橋」とも表記することもあるそうです。)などが仮住居して住んだところで、鬱蒼とした林を抜けるとその殿内跡があります。まるで、斎場御嶽のような、神聖な空気が漂う場所でした。

そして、その林の中には、琉球王国第2代国王・尚巴志の子どもである豊見城按司の墓もあります。今も門中の方らしき人が拝みに訪れることがあるのだそうです。

次は「正泉井(せいせんがー)」。

水源地で除草剤などが使われている可能性があり、今は飲めないそうですが、簡易水道として雑用水などに使われているのだそうです。


かなり豊富な水量があります。苔むした石の水受けが美しく残り、長い年月を感じさせます。

次は「屋武多井(やんだがー)」。

道路よりも少し低い位置にあり、静かでしっとりとした雰囲気が漂います。

昔はうなぎもいたそうです。

立派な石垣のある石畳道を抜けると

「平泉井(へいせんがー)」に着きます。

ここはタンクの跡が残るのみとなっています。

平泉井から県道を渡って東側へ移動すると、琉球王国第6代国王、尚泰久が眠るお墓があります。

尚泰久王は、万国津梁の鐘を作ったことで知られる王様。

嶺井さんによる尚泰久王の生き様についてのとてもわかりやすい紙芝居です。

手前に尚泰久王が、そして奥には生前仲が悪かったと言われる長男の安次富加那巴志が葬られています。

お墓は、時々は通っていた道沿いにありますが、その存在に全く気づきませんでした。

尚泰久王の墓から少し歩くと「尚布里(しょうふり)の墓」があります。

尚布里は、第5代国王である尚金福の弟で、尚金福の死後、尚金福の息子である尚志魯(しょうしろ)との激しい権力争いにより両名とも死亡したと歴史上は記されているそうですが、

尚布里は実は生き延びていて、各地を転々とした後、最後に行きついたのがこの地だったのだそうです。

散策もいよいよ終盤に差し掛かりました。次に訪れたのは「番所の井(ばんじゅぬかー)」。

カーの前に案内表示も建てられはいますが、少しわかりにくい場所にあります。

ここは現在も生活用水として活用されているのだそうです。

嶺井さんからは、水道法と湧水の関連や、簡易水道については雨の多い少ないにより水圧が変わることなどのお話しをいただきました。

旧南城市役所脇にある「番所公園」に来ました。ここには仲村渠樋川を模した樋川がありますが、この日は上で水を止めているらしく、水が出ていませんでした。こちらから普段流れ出ている水も湧水なのだそうです。

番所公園内にあるこの水路にはうなぎも棲んでいるらしく、過去には「うなぎを捕まえたら1万円」という懸賞金を目指して子ども達が掃除をしていたこともあるのだそうです。実際にうなぎは生息しているそうですが、捕まえた例はないそうです。また、本当にうなぎを捕まえても食べてはいけないのだそうです。

散策コースの最後は、「世礼井(しりーがー)」。

こちらも、屋武多井と同様、道路よりも少し低い位置にあります。

以前はこちらで若水汲みも行われていたそうですが、今は行われていないそうです。
ちなみに、2007年に「湧き水紀行」の取材で訪れた奥武島では今も若水汲みが行われており、伝統文化が確実に若い人たちに引き継がれているそうです。
約2時間の散策会もこれで終了です。数日前は晴れる予報だったのに、当日朝は「雨、一部では雷を伴い激しく降る」に予報が変わり、天候が心配されましたが、所々でポツポツと降られる程度で幸い本降りにはなりませんでした。案内をして下さったガイドの嶺井さんはものすごくいろいろなことをご存知で、第一尚氏とのゆかりの深いこの地域は首里言葉であるとの話は、目から鱗でした。また、ガイドとしての苦労話や「どんぐり1個100円」などの話も面白く、充実した2時間を過ごすことができました。富里地区というごく狭いエリアにこれほど多くのカーがあり、第一尚氏ゆかりの方々ともこれほど縁の深い地域であって「第一尚氏の隠れ里」と呼ばれる所以を知ることができ、大変有意義であったと思います。

最後は、嶺井さんを囲んで参加者全員で記念撮影を行いました。百十踏揚のお墓は、後方の山にあります。
参加された皆さん、大変お疲れ様でした。そして、お世話になった嶺井さんに改めて感謝申し上げます。
今月の定例会は「グスクとカーをめぐる」勉強会で、2017年恩納村山田グスクでの勉強会に引き続き、渡辺が企画を担当しました。この日の参加は、金城顧問をはじめ、琉球大学の高橋さんを親子を含め10名です。
今回は、南城市玉城富里編です。

今回、このルートを案内してくださるのは「アマミキヨ浪漫の会」のガイド、嶺井さんです(写真左から二人目の水色のシャツの方)。天気が心配なため早速スタートです。

集合場所の陸上競技場から少し歩くと、左側に小さな森が見えますが、この辺りはやんばると同じ地質で、植生もほぼ同じなのだそうです。

まず最初に訪れたのは「百十踏揚(ももとふみあがり)の墓」。

百十踏揚は、琉球王国第6代の国王、尚泰久の長女で、勝連按司であった阿麻和利のもとに嫁いだ方。祖父は護佐丸です。

そもそもこの結婚は、勝連按司・阿麻和利の動向を警戒していた首里王府による政略結婚だったのだそうです。
護佐丸・阿麻和利の乱の後、阿麻和利は王府に征伐され、百十踏揚は、越来賢雄(鬼大城)に嫁ぐことになりますが、この越来賢雄もまた征伐されてしまいます。
絶世の美女であったそうですが、自らの祖父が夫の謀略によって命を落とし、その夫も次の夫も征伐されてしまうという悲劇の中に生きた方であったことが嶺井さんの紙芝居からもよくわかります。
百十踏揚の墓を探しに来たものの見つけられなかったメンバーの方が数名。その方たちの感激もひとしおだったようです。

次に訪れたのは、「仲栄真(なけーま)グスク」。

このグスクは、尚泰久の四男である八幡加那志らが作ったとされますが、今は石積みの一部がわずかに残るのみです。

次は、その仲栄真グスクの目の前にある「主留前殿内(するめーどぅんち)」。ここは、尚泰久の長男である安次富加那巴志(あしとみかなはし。「加那巴志」は「金橋」とも表記することもあるそうです。)などが仮住居して住んだところで、鬱蒼とした林を抜けるとその殿内跡があります。まるで、斎場御嶽のような、神聖な空気が漂う場所でした。

そして、その林の中には、琉球王国第2代国王・尚巴志の子どもである豊見城按司の墓もあります。今も門中の方らしき人が拝みに訪れることがあるのだそうです。

次は「正泉井(せいせんがー)」。

水源地で除草剤などが使われている可能性があり、今は飲めないそうですが、簡易水道として雑用水などに使われているのだそうです。


かなり豊富な水量があります。苔むした石の水受けが美しく残り、長い年月を感じさせます。

次は「屋武多井(やんだがー)」。

道路よりも少し低い位置にあり、静かでしっとりとした雰囲気が漂います。

昔はうなぎもいたそうです。

立派な石垣のある石畳道を抜けると

「平泉井(へいせんがー)」に着きます。

ここはタンクの跡が残るのみとなっています。

平泉井から県道を渡って東側へ移動すると、琉球王国第6代国王、尚泰久が眠るお墓があります。

尚泰久王は、万国津梁の鐘を作ったことで知られる王様。

嶺井さんによる尚泰久王の生き様についてのとてもわかりやすい紙芝居です。

手前に尚泰久王が、そして奥には生前仲が悪かったと言われる長男の安次富加那巴志が葬られています。

お墓は、時々は通っていた道沿いにありますが、その存在に全く気づきませんでした。

尚泰久王の墓から少し歩くと「尚布里(しょうふり)の墓」があります。

尚布里は、第5代国王である尚金福の弟で、尚金福の死後、尚金福の息子である尚志魯(しょうしろ)との激しい権力争いにより両名とも死亡したと歴史上は記されているそうですが、

尚布里は実は生き延びていて、各地を転々とした後、最後に行きついたのがこの地だったのだそうです。

散策もいよいよ終盤に差し掛かりました。次に訪れたのは「番所の井(ばんじゅぬかー)」。

カーの前に案内表示も建てられはいますが、少しわかりにくい場所にあります。

ここは現在も生活用水として活用されているのだそうです。

嶺井さんからは、水道法と湧水の関連や、簡易水道については雨の多い少ないにより水圧が変わることなどのお話しをいただきました。

旧南城市役所脇にある「番所公園」に来ました。ここには仲村渠樋川を模した樋川がありますが、この日は上で水を止めているらしく、水が出ていませんでした。こちらから普段流れ出ている水も湧水なのだそうです。

番所公園内にあるこの水路にはうなぎも棲んでいるらしく、過去には「うなぎを捕まえたら1万円」という懸賞金を目指して子ども達が掃除をしていたこともあるのだそうです。実際にうなぎは生息しているそうですが、捕まえた例はないそうです。また、本当にうなぎを捕まえても食べてはいけないのだそうです。

散策コースの最後は、「世礼井(しりーがー)」。

こちらも、屋武多井と同様、道路よりも少し低い位置にあります。

以前はこちらで若水汲みも行われていたそうですが、今は行われていないそうです。
ちなみに、2007年に「湧き水紀行」の取材で訪れた奥武島では今も若水汲みが行われており、伝統文化が確実に若い人たちに引き継がれているそうです。
約2時間の散策会もこれで終了です。数日前は晴れる予報だったのに、当日朝は「雨、一部では雷を伴い激しく降る」に予報が変わり、天候が心配されましたが、所々でポツポツと降られる程度で幸い本降りにはなりませんでした。案内をして下さったガイドの嶺井さんはものすごくいろいろなことをご存知で、第一尚氏とのゆかりの深いこの地域は首里言葉であるとの話は、目から鱗でした。また、ガイドとしての苦労話や「どんぐり1個100円」などの話も面白く、充実した2時間を過ごすことができました。富里地区というごく狭いエリアにこれほど多くのカーがあり、第一尚氏ゆかりの方々ともこれほど縁の深い地域であって「第一尚氏の隠れ里」と呼ばれる所以を知ることができ、大変有意義であったと思います。

最後は、嶺井さんを囲んで参加者全員で記念撮影を行いました。百十踏揚のお墓は、後方の山にあります。
参加された皆さん、大変お疲れ様でした。そして、お世話になった嶺井さんに改めて感謝申し上げます。